今「人的資本経営」を考える

複雑化する社会の課題を資本市場の力で解決できるかが試されている今、企業と社会の持続可能性の鍵を握る人的資本に注目が集まっています。企業はCEOやCHROなどの経営陣の旗振りのもと、人的資本の可視化・開示への対応を出発点として、社会の変革に向けた人的資本経営を力強く推進していくことが求められています。

「人的資本」に関する世界的な開示拡充の動向、日本企業の現状を考察したうえで、KPMGの支援実例を踏まえた人的資本可視化・開示への対応を中心に人的資本経営推進のポイントを解説します。

なぜ、今「人的資本経営」なのでしょうか。「サステナビリティ経営」、「ステークホルダー資本主義」、「新しい資本主義」などといった掛け声のもと、気候変動や人権問題などの社会課題を資本市場の力で緩和・解決できるのかが試されている今、原点回帰ともいえる「人的資本経営」に込められた期待は大きいと考えます。資本市場というメカニズムが市民社会、人類文明という「土壌」の上でしか成立しえない以上、その「土壌」の持続性が損なわれないよう、人間の持つ力、叡智を最大限に発揮するための装置として企業や資本市場をとらえ直し、社会を変革していくことが求められています。

この変革へのモーメントは、各国における人的資本に関する開示拡充の要請という形で現れはじめていますが、人的資本経営の出発点としては、人的資本の可視化・開示への対応を推進していくことが重要となります。そのためには、まず自社の現状を把握したうえで目指すべきゴールを明確にし、CEO、CHROをはじめとする経営層の旗振りのもと、人事部門や経営企画部門、IR部門、サステナビリティ部門が連携して取組みを強化していく必要があります。

本稿では、「人的資本」に関する世界的な開示拡充の動向、日本企業の現状を考察したうえで、KPMGの支援実例を踏まえた人的資本可視化・開示への対応を中心に人的資本経営推進のポイントを解説します。

なお、本文中の意見に関する部分は、筆者の私見であることをあらかじめお断りします。

POINT 1
人的資本の開示拡充は「待ったなし」

世界で人的資本に関する開示拡充に向けた動きが急速に進んでいる。日本でも有価証券報告書において、人的資本に関する方針やそれに係る指標と目標等を開示することが提言されており、人的資本に関する開示拡充は待ったなしの状況と言える。

POINT 2
国内企業の「人的資本経営」は緒に就いたばかり

2022年5月に経済産業省が公表した「人的資本経営に関する調査集計結果」1によると、「経営戦略に連動した人材戦略」など「人的資本経営」の重要性は認識されており、現在は試行錯誤の段階である。

POINT 3
「人的資本経営」に向けて今できることを

まずは「人的資本経営」における自社の現在地を把握することが重要。そのうえで目指すべき方向性を定めて、人材戦略の策定と見直し、人的資本データ管理プロセスの構築、人的資本関連の情報開示の準備などの取組みを段階的に進めることが肝要である。

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I.なぜ、今「人的資本」なのか

1.世界で人的資本に関する開示拡充の動きが加速

世界各国で「人的資本」の開示拡充の動きが加速しています。国内においては、2021年のコーポレートガバナンス・コードの改定により、人材・人的資本に関する記載の充実が図られました。2022年6月には、金融庁の金融審議会が「ディスクロージャーワーキング・グループ 報告」で有価証券報告書において人的資本に関する方針や指標、目標等の開示を提言しています。また8月には、内閣官房の非財務情報可視化研究会が「人的資本可視化指針」2を公表しています。

米国では、2020年11月にSEC (米国証券取引委員会)が企業に対する開示規制(Regulation S-K)の改訂を提言し、2021年6月には人的資本 8項目の情報開示を義務付ける法案を提出しています。

欧州においても、2022年 6月に欧州委員会(EC)が、人的資本等の無形資産の開示要求を含む企業サステナビリティ報告指令案(CSRD)の暫定合意版を公表しました。

2.不確実性の時代だからこそ、投資家も企業も「人的資本」を重視

わが国では、従前より企業経営に必要な要素として「ヒト・モノ・カネ」の3要素を挙げてきましたが、「ヒト」はその筆頭に位置づけられています。また、いわゆる「日本的経営」とは「ヒト」を重視した経営であるととらえられており、「ヒト(人材)」を自社の強み・競争優位性として掲げている企業も数多く見られます。そのようななか、なぜ今「人的資本」なのかを改めて整理します。

2022年 8月に内閣官房の非財務情報可視化研究会が公表した「人的資本可視化指針」によれば、人的資本の可視化への期待が高まる背景として以下のような説明がなされています。

  • 持続的な企業価値向上の推進力は「無形資産」であり、人的資本への投資はその中核要素である
  • 同時に、社会とのサステナビリティと企業の成長の両立を図る「サステナビリティ経営」の重要な要素である

投資家は、企業の価値創造の鍵を握る「人的資本」に関する情報が既存の開示では不十分であると考えており、経営者による人材戦略の説明と併せた開示拡充を要請しています。

一方、企業にとって人的資本の重要性が高まってきた背景には、昨今の企業を巡る事業環境の変化があると考えられます。新型コロナウイルス感染症の事業への影響の見通しは、いまだ不鮮明であり、加えて収束の見えないウクライナ情勢、世界各地で頻発する自然災害によるサプライチェーンの断絶・遅延、食糧や原材料不足、価格高騰など、事業活動を取り巻く脅威が著しく高まっています。また、人工知能(AI)やIoTなどの高度なテクノロジーの 発展は、新たな事業機会を生み出すと同時に既存のルールやプレイヤーを一変させる破壊力を持っています。多くの企業がこれまでの延長線上ではない新たな市場で、新たな競合企業を相手に戦っていくことになるでしょう。このような事業環境で企業が持続的に成長するためには、既存事業のビジネスモデルのあり方を変革していく必要があります。この変革の鍵となるのが、変化に対応した人材です。たとえば、機動的な事業ポートフォリオには、それに対応できる人材ポートフォリオが必要です。経営者は、社内の適任者を抜擢するか、社外の人材を獲得するか、いずれかの方法で、新たな戦略に適合した人材を適時・適量に確保しなければなりません。また、機動的な事業ポートフォリオの組替えに伴い、従業員のリスキリングやDE&I (多様性、公平性、包摂性)も重要な経営課題となりつつあります。

II.日本企業の「人的資本経営」の現状

日本企業における「人的資本経営」の現在地を理解するには、「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~人材版伊藤レポート~」3(以下、「人材版伊藤レポート」と言う)に基づき、2022年5月に経済産業省が公表した「人的資本経営に関する調査集計結果」(以下、「人的資本経営調査」という)が参考になります。

1.企業理念、パーパス、経営戦略は明確になっているものの、成果創出への寄与は限定的

人的資本経営調査によれば、「企業理念、企業の存在意義や経営戦略の明確化」に関する設問では、68.7%の経営陣が「対応策を実行している(以下、「実行中」という)」または「対応策を実行済みであり、かつ、その結果を踏まえ必要な見直しをしている(以下、「実行済」という)」と回答しています(図表1参照)。

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この結果から、企業理念、企業の存在意義や経営戦略の重要性に対する経営陣の認識の高さが窺えます。一方で「実行した結果として成果創出に明確に寄与している(以下、「成果あり」という)」との回答は15.5%にとどまっており、確実に成果が出ていると考える経営陣の割合は低くなっています。

2.経営戦略と連動した人材戦略の策定は試行錯誤段階

人的資本経営調査によれば、「経営戦略との連動」については、53.6%の経営陣が何らかの対応策を「実行中/実行済」と回答しているものの、「成果あり」と回答したのは3%にとどまっています(図表2参照)。

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多くの企業が経営戦略と人材戦略の連動について何らかの対応策を検討・実行しているものの、まだ試行錯誤の段階と言えます。

また、「重要な人材課題の特定」、「KPI設定/現状とのギャップ把握」、「投資対効果の測定」の設問に関しては、「対応策は未検討(以下、「未検討」という)」または「具体的に対応策を検討している(以下、「検討中」という)との回答が6~8割を占め、重要性は認識しつつも、多くの企業が対応に苦慮している状況が窺えます。

3.必要人材の最適配置、多様な価値観の取込み等の施策は道半ば

人的資本経営調査では「人材版伊藤レポート」で整理された人材戦略上の共通要素も取り上げていますが、「動的な人材ポートフォリオ」、「ダイバーシティ&インクルージョン」に関する設問はいずれも「未検討/検討中」と回答した経営陣が6~8割を占めています(図表3参照)。

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必要人材の最適配置、多様な価値観の取込みなどの諸施策も道半ばと言えます。

III.人的資本の可視化に向けた企業の取組み

人的資本経営の要諦である「経営戦略と連動した人材戦略」を実現するためには、企業理念、パーパス、経営戦略の明確化、経営目標達成のための人材戦略の策定、人材ポートフォリオをはじめとする人材関連の主要施策を経営陣によるトップダウンで推進することが不可欠です。特に経営戦略の立案主体である経営企画部門と人材戦略・施策実施主体である人事部門との連携を進めるには、思い切った変革が必要になる企業も多いのではないでしょうか。その他にも人的資本の現状把握やKPI管理のためにはグローバルレベルでの情報収集の仕組みも必要になってくるため、経営戦略と連動した人材戦略が策定され、その成果が出るまでには一定の時間がかかると予想されます。その一方で、人的資本に関する開示の充実も喫緊の課題になりつつあるため、企業としては現実的な対応を検討しなければなりません。これについて「人的資本可視化指針」では、まず可能な範囲で可視化・開示を行い、フィードバックに基づき人材戦略および開示のブラッシュアップを図るアプローチが紹介されています。

ここで留意すべきことは、開示はあくまでも「人的資本経営」に向けた長い旅程の経過点に過ぎないという点です。単なる定期的・形式的な開示にとどまらないよう、開示の取組みと並行して経営陣の意識改革も含めて、社内の人的資本経営の体制を整えていくことが重要です。

次節以降では図表4の流れに沿って、これまでのKPMGの支援実例に基づく人的資本経営推進のポイントを解説します。

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1.自社における「人的資本経営」の現状を知る

まずは、自社の人的資本経営の現状を「人的資本経営の枠組み」と「人的資本関連の指標」の2つの側面から分析します。

1つ目の側面は、あるべき人的資本経営の枠組みと自社の人材戦略の策定・実施状況の現状とのギャップ分析を行うものです。「あるべき人的資本経営の枠組み」は、出発点として「人材版伊藤レポート」における「経営陣の果たすべき役割・アクション」を活用し、他社の開示事例等をベンチマークしながら、自社における人的資本経営のあり方を整理します。

この現状分析の結果として、企業理念や中期経営計画といったトップダウンの流れと、日々の人事業務や人事施策の積上げによるボトムアップの流れがつながらないという課題が特定されるケースが多く見られますが、経営戦略と人材戦略との間の空白の存在を明らかにすることも、現状分析の目的の1つです。

2つ目の側面は「人的資本関連の指標」に関する現状分析です。人的資本関連の指標を体系的に分析するためには、人的資本に関する情報開示の項目が網羅的に整理されているISO30414 (人的資本に関する情報開示のガイドライン)を活用するのがよいでしょう。ISO30414は、2018年に国際標準化機構(ISO)が公開した人的資本に関するガイドラインで、組織人事全般に関わる11の報告領域と58の測定基準から構成されています。開示を求める各測定基準の具体的な計算式や報告の例が提示されており、「何をどう開示するべきか」が明確に示されているという特徴があります。

ISO30414以外にも、自社で検討が必要な開示基準(たとえば、欧州CSRDにおける人的資本関連の項目や先に公表された人的資本可視化指針、ESG格付機関による設問など)があれば、ISO30414の測定基準との設問の重複を考慮しつつ、必要に応じて項目を追加します。なお、ISO30414は各測定基準ごとに具体的な計算式が 記載されているものの、自社の状況との分析においてそのまま利用できるわけではありません。「報告領域は自社の業務のどこまでを含むのか」、「従業員とはどのような属性、範囲なのか」といった自社における定義との擦り合わせや現状の管理指標が妥当かどうかの判断など、検討すべき論点は多岐にわたります。

2.人的資本経営推進のためのロードマップを描く

現状分析により自社の現在地が見えてきた段階で、人的資本経営として、いつまでにどこを目指すのか、経営層の意思を明確にしたロードマップの策定が必要になります。このロードマップ上の主要な取組みは、大きく次の3つに分類できます。1つ目は人材戦略・人材マネジメントの策定・改善の取組み、2つ目は人的資本データ管理プロセス構築の取組み、そして3つ目が情報開示・レポーティングの取組みです。

1つ目の人材戦略・人材マネジメントの策定・改善の取組みは、まさに人的資本経営の実践そのものとなります。経営層を巻き込みながら、経営戦略遂行に必要な人材像の定義、人材面の課題を解決するための人材マネジメント方針の見直し、新たな人材戦略、人材関連のKPI設定と管理プロセスの構築など、半年から1年をかけて体制を整備し、その後運用しながら改善のサイクルを回していきます。課題の状況によっては役員のサクセッションプランの策定や指名委員会の設置など取締役会を含むガバナンス体制の見直しや人事関連部門の再編・業務改革が必要となることも想定されます。

2つ目の人的資本データ管理プロセス構築の取組みには、開示のためのデータ収集プラットフォーム構築だけでなく、動的な人材ポートフォリオ管理を支えるタレントマネジメントシステムなどが挙げられます。いずれも企業単体ではなく、グローバルを対象範囲としたシステムの構築が求められるため、システム規模が大きくなる場合には段階的に導入を進めるのがポイントになります。

3つ目の情報開示・レポーティングの取組みについては次節で解説します。

3.人的資本関連の情報開示・レポーティングに備える

人的資本経営のサイクルを回しはじめるためにも、初年度の情報開示に間に合うように人的資本関連の情報開示・レポーティングの準備を進める必要があります。そのためには、最初に情報開示の目的と読み手を想定したうえで、どの媒体で開示するのかを検討します。参考になるのは、同じ非財務の領域で先行しているTCFD等の気候関連の情報開示です。気候関連の情報開示では、統合報告書(アニュアルレポート)および有価証券報告書にて概要を説明し、ウェブサイト、サステナビリティレポートもしくは独立したレポートに詳細情報を記載するという形式が多く見られます。人的資本関連の開示も投資家からの要請に応える部分が多いことから、気候関連の情報開示と同様、概要と詳細情報を分けた媒体利用が1つの開示パターンとして想定できます。

内容面では、初年度は社内で保有する既存の情報をベースに開示を進めることになります。ただし、これまで開示してこなかった情報(たとえば、内部管理のKPI等)は開示した場合の影響も考慮したうえで、開示可否の判断が必要となります。

また、重要な情報であっても、現時点では親会社単体の情報しか入手できないケースもよく見られます。最終形としては海外を含む連結グループでの情報開示が望ましいですが、単体のみだからといって開示しないのではなく、単体の情報を開示したうえで、次年度以降の情報の範囲や内容の拡充を想定している旨の注記を入れるなど、積極的な情報開示の姿勢を見せることが肝要です。

IV.さいごに

ここまで、企業経営における永遠のテーマとも言える「ヒト(人的資本)」に関して、その開示拡充の動向、日本企業の現状、人的資本経営推進のポイントを概括してきました。

冒頭で触れた通り、気候変動や人権問題などの社会課題を企業および資本市場の力で緩和・解決できるかが試されている今、世界各国で人的資本を含むサステナビリティ情報に関する開示拡充の要請が高まりを見せています。企業側は、今後予定されているサステナビリティ情報の開示義務を誠実に果たすのは当然のことながら、「自社の価値創造にとって重要な情報を開示する」という姿勢を忘れてはならないでしょう。ガイドラインがあるから、他社が採用しているからといった理由だけで開示するのではなく、各種基準や投資家等が求める比較可能性の要請を勘案しつつも、最終的には、企業独自の「重要性(マテリアリティ)」のフィルターを通して取捨選択した情報を開示・説明することが肝要です。これらの「重要性のある」サステナビリティ情報に基づきステークホルダーと対話を行い、そこで得たフィードバックを経営戦略に活かすというサイクルを回し続けることが、自社の持続的な価値創造と社会課題解決の双方にとって極めて有用であると考えます。

このような潮流のなか、企業と社会のサステナビリティの鍵を握る「ヒト(人的資本)」について、改めて自社の価値創造や経営戦略における位置付けとその重要性を再確認する時機が到来しているのではないでしょうか。企業は、CEOやCHROをはじめとした経営陣の旗振りのもと、人的資本の可視化・開示への対応を出発点として、社会の変革に向けた人的資本経営を力強く推進していくことが今まさに求められています。

執筆者

KPMGあずさサステナビリティ
シニアマネジャー 引場 克尚

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